星野富弘と妻との馴れ初めや子供がいたのか調査!家族構成についても | トマト★ジャーナル

星野富弘と妻との馴れ初めや子供がいたのか調査!家族構成についても

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詩画作家の星野富弘(とみひろ)さんが、呼吸不全のため、2024年4月28日に亡くなられました。

享年78歳でした。

心からお悔やみ申し上げます。

星野富弘さんは、群馬大学卒業後、中学校の体育教師になったのですが、クラブ活動指導中に鉄棒から転落し、頸髄損傷という大怪我をしてしまい、肩から下の自由を失ってしまいました。

それは、大学を卒業して、教師になった1年目の6月のことでした。

そんな星野富弘さんは、怪我から2年程たった頃から、口に筆をくわえて詩や絵を書き始めました。

詩人であり画家でもある星野富弘さんのご活躍ぶりは、皆さんもよくご存じでしょう。

今回の記事では、星野富弘さんと結婚相手である妻(奥さん)に注目!

星野富弘さんと妻・昌子さんとの馴れ初めや、お2人の間にお子さんがいたのかどうかを調査!

家族構成についても、ご紹介いたします。

▽この記事でわかること▽
■星野富弘と結婚相手の妻との馴れ初めは?
■星野富弘と結婚相手の妻との間に子供はいたの?
■星野富弘の家族構成
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星野富弘と結婚相手の妻との馴れ初めは?

星野富弘さんと、後に奥様となる結婚相手の渡辺昌子さんは、星野富弘さんの病室で出会いました。

渡辺昌子さんは、障害を負って入院されていた星野富弘さんの身の回りのお手伝いをされていたメンバーの中のひとりでした。

星野富弘さんが怪我をされたのは、1970年6月17日。

渡辺昌子さんが星野富弘さんの病室に出入りするようになられたのは、1973年1月頃でした。

渡辺昌子さんはキリスト教徒で、所属している教会の牧師さんから紹介されて、星野富弘さんの病室を訪れました。

星野富弘さんは、その時の様子を著書に記しています。

 「私は前橋キリスト教会に通っている渡辺と申します。

舟喜牧師からいつもお話をきいています」

 母は買い物に出かけていて留守だったので、かわりに彼女は私に蜜柑を食べさせてくれると、まもなく帰って行った。

 彼女はその日から土曜日ごとに、毎週欠かさず来てくれるようになり、それがいつの間にか週に2度になり、とうとう3度になってしまった。

私が熱を出した時など、会社の帰りに毎日立ち寄ってくれて、病室には入らず、部屋の窓明かりを遠くからみつめながら祈ってくれた人だった。

引用元:星野富弘著『愛、深き淵より』

渡辺昌子さんとの出会いから約2年後の1974年12月には、星野富弘さん自身もキリスト教の洗礼を受けました。

そして、出会いから約8年後の1981年4月29日に、お2人は前橋キリスト教会で結婚されました。

星野富弘と結婚相手の妻との間に子供はいたの?

星野富弘さんと結婚相手である妻(奥さん)・昌子さんの間には、子供はいなかったようです。

しかし、お2人の間にはしっかりとした絆があり、とても素敵なご夫婦だったことは間違いありません!

1981年にご結婚されてから、星野富弘さんがこの世に送り出された多くの作品たちは、昌子さんと二人で作り出したものとも言えます。

ですから、これらの作品たちが、お2人のお子さんのようなものかもしれませんね。

実際に、星野富弘さんご自身も「作品たちは、わたしたちの子供」と話をされていたようです。

 

星野富弘さんが書かれた本の中には、たびたび奥様である昌子さんのことが書かれてあります。

こちらは、星野富弘さんの詩の中でも、特に多くの人に愛されている作品のひとつです。

結婚ゆび輪は いらないと いった
朝、顔を洗うとき
私の顔を きずつけないように
体を持ち上げるとき
私が痛くないように
結婚ゆび輪は いらないと いった
今、レースのカーテンをつきぬけてくる
朝陽の中で
私の許に来たあなたが
洗面器から冷たい水をすくっている
その十本の指先から
金よりも 銀よりも
美しい雫が 落ちている。

引用元:星野富弘著 がくあじさい(結婚指輪)/『風の旅』/絵はがき集 第3集 収録

とても美しい詩ですね。

 

星野富弘の家族構成

星野富弘さんのご家族について、ご紹介します。

星野富弘さんは、7人兄弟の5番目でした。

緑豊かな群馬県勢多郡東村(現在の、みどり市東町)のご出身で、大家族の中で育ちました。

 

星野富弘さんの作品の中に、お父さんについて書かれた詩を見つけました。

「あなたが最後に見た季節がまた巡って来ました

あれから私は幽霊というものがいてもいいと思うようになりました

できることなら あなたに幽霊になってもらってでも

もう一度 逢いたいのです

父ちゃん

気付くのが少し遅かったけれど分かりました

詫びることも お礼をいうことも

出来なくなる別れがあるということを」

引用元:【星野富弘 花の詩画集】「別れより」サンカクソウ

読んでいただいたらわかるように、亡くなったお父さんのことを偲んで書かれた詩です。

お父さんが亡くなられたのは、星野富弘さんが何歳くらいの頃なのでしょうか。

詫びることも お礼をいうことも出来なかった」というように書かれているので、早くに亡くなられたのかもしれませんね。

 

星野富弘さんのお母さんは、知野(ともの)さん。

1970年6月17日に大怪我をされた息子・富弘さんを、献身的に介護されました。

特に、怪我をされた当初は、怪我をしたご本人もご家族も大変辛く苦しい日々を送られたと思います。

長い病床生活の中で、星野富弘さんが積もりに積もったいらだちを爆発させるような時も、じっとそばでそれを受け止めてくださったそうです。

そして、怪我をしてから約2年後に、星野富弘さんが製作活動を始めるようになると、スケッチブックや絵の具などを準備するなど、サポートをされました。

最初の制作活動は、母と息子の二人三脚で始まったのですね。

1981年に星野富弘さんが渡辺昌子さんとご結婚されるまで、毎日の食事の手助けや身の回りの様々な介護は、お母さんがつきっきりで対応されました。

そんな星野富弘さんの母・知野さんは、2018年7月に御年97歳で亡くなられました。

 

星野富弘さんのお母さんへの想いが、『ぺんぺん草のうた』と言われる詩に書かれています。

この詩には、ミュージシャンの岩渕まことさんが曲をつけて、歌われるようになりました。

 

まとめ

今回の記事では、2024年4月28日に亡くなられた星野富弘さんの奥様やご家族についてご紹介しました。

星野富弘さんと妻・昌子さんとの馴れ初めについては、大怪我をした星野富弘さんが長期の入院をよぎなくされていた時期に、ボランティアでお世話をされるようになったことがきっかけでした。

お2人の間には子供はいませんでしたが、星野富弘さんは奥様である昌子さんの献身的な支えもあり、多くの素晴らしい作品を世に送り出してこられました。

そうして生まれた多くの素晴らしい作品たちは、お2人の大事な子供たちとも言えるでしょう。

星野富弘さんは、7人兄弟の5番目!

お父さんについては、もしかしたら早くにお亡くなりになっているのかもしれません。

お母さんは、大怪我をした星野富弘さんを献身的に介護されました。

星野富弘さんは、残念ながら亡くなられてしまいましたが、天国でご両親と再会されていることでしょう。

今回の記事も最後まで読んでいただき、ありがとうございました!

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